金 子 兜 太

                                      
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     句会中の金子先生





 (満年齢で記す。)

 大正8年 (1919)
  9月23日(秋彼岸)、埼玉県小川町の母の実家で生まれる。育ったのは同県
 秩父盆地皆野町の父の家。父元春(俳号・伊昔紅(いせきこう))、母はるの第一子。
 父は東亜同文書院校医として上海に在住。

 大正10年 (1922) 2歳
  母とともに、上海の父のもとで4歳まで過ごす。妹・灯生まれる。

 大正15年 (1926) 7歳
  父、上海より帰り、郷里秩父の国神村で医院を開業。隣り町の皆野小学校に入学。
 妹・稚木(みずき)生まれる。

 昭和3年 (1928) 9歳
  父の医院、皆野町に移る。祖父母、叔母とその子供たちと同居。母の苦労、大。
 弟・千侍(せんじ)生まれる。

 昭和5年 (1930) 11歳
  夏休みには房総御宿の父の知人宅で過ごす。父、俳誌「若鮎」創刊。秩父盆踊の
 普及に尽力。妹・豊子生まれる。

 昭和7年 (1931) 13歳
 埼玉県立熊谷中学校 (現、熊谷高校)に入学。

 昭和八年 (1933) 14歳
 末弟・恍三生まれる。

 昭和11年 (1936) 17歳
  二・二六事件を雪中に知る。『夏日漱石全集』を耽読。秩父事件についての古老か
 らの聞き書きを校友会雑誌に出す。

 昭和12年 (1937) 18歳
  旧制水戸高等学校文科乙類に入学。柔道部に所属。11月、一年上級の出沢珊
 太郎に誘われ、吉田両耳(良治)、長谷川朝暮(四郎)両教授の句会に出席。
 〈白梅や老子無心の旅に住む)を初めて作る。

 昭和13年 (1938) 19歳
  四月、全国学生俳句誌「成層圏」に参加。(学童のざわめき過ぎて麦萌えぬ)
 (日毎なる
静寂に麦の萌え出づる)などの句を掲載。竹下しつの女・加藤楸邨・中村
 草田男を知る。

 昭和14年 (1939) 20歳
  祖父・茅蔵死去。ドストエフスキーなどの小説を乱読。水戸高校「暁鐘寮報」に
 「最近秀句鑑賞」を執筆。「俳句研究」の中村草田男選に入選。

 昭和15年 (1940) 21歳
 嶋田青峰、「主宰「土上」2月号より投句。
 葡萄の実みな灯を持ってゐる快談
 娘嫁がせ秋刀魚焼く煙にむせてゐる
 曇日の街柩車のほこりにしばし塗れ
 秋風裡女教師の厚き眼鐘にあふ

 右の第一句について青峰は「土上俳句月評」で「胸のすくやうな爽快な感じが
 溢れてゐる」と評した。
 浪人し、東京阿佐谷の金子紀介(父の従弟)宅に下宿。中村草田男を囲む赤坂
 山の茶屋の「成層圏」句会の常連となり、堀徹を知る。

 昭和16年 (1941) 22歳
 「土上」2月号の「土上俳句月評」で嶋田青峰は兜太の作品、
 遅刻見に山羊鳴き鶏は首かしげ
 訃に急ぐ雀鳩など飛び立たせ
 雛つぶせし手を振りてゆく落葉遺
 木葉髪家嗣がぬ故を間はれつ

 を引き、批評。嶋田青峰、治安維持法で検挙され、2月、「土上」終刊。東京帝国
 大学経済学部に入学。加藤楸邨主宰の「寒雷」7月号に(懐中燈に現はるゝもの
 みな冬木)(冬
の海暮れゆくグラス水を盛る)の二句が初入選。12月8日、太平
 洋戦争に突入。

 昭和17年(1942)23歳
  「寒雷」2月号、3月号に「尾崎放哉」(上・下)を執筆。同誌4月号「寒雷集」
 第二席(ひぐらしや点せば白地灯の色に)(乾草の匂ひに染みて母若し)など4句。
 同号に「寒雷集鑑賞」執筆。同誌9月号に随筆「狸の応召」を書く。同号「寒雷集
 作品」の(嫁ぐ妹と蛙田を越え鉄路を越え)について、楸邨は「寒雷俳句の動向」で
 「『蛙田を越え鉄路を越え』はまことにたしかな把握と思ふ」と評した。また、同誌12
 月号の(曼珠沙華どれも腹出し秩父の子)についての楸邨評は次の通り「『秩父
 に住みて」と前書にあるとほり、兜太は秩父に生れた生えぬきの秩父っ子であるが、
 この句は、その秩父の風上をしっかり把握した作である。由来現代俳句は都会人の
 作家が多かったので、線の細い句が多く、田園郷土の色調を生かしえた作家は鬼
 城、蛇笏の如き先進を除くと、さう多くない。自然作家とか、風景作家とかいふ名が
 あって、田園自然を詠む者もあるにはあるが、本質的に風上の中に惨透して詠み出
 でてゐる人は少いので、これが一面現代句の弱さをなしてゐる。

  都会人がたまたま田園に赴いて好奇の眼を以て描き出した田園白然俳句では、
 結局眺めただけの作に過ぎぬ。その本来の性格はやはり都会人の線の細さが、
 田園的な素材をとったといふに過ぎぬので、真の風土色の強い句は、その土の中
 に住み、これと滲透しなくては出ないのである。この肉体的滲透あって始めて真の
 自然が生き、人間が生きることは、芭蕉の旅の句を見ると明かであらう。今の旅は
 交通機関を利用したもので、結局都会生活の延長に過ぎぬから、眺めた俳句の域
 から出られないのである。

  さういふ意味でこの句は正に秩父人の句である。作者兜太は都会に学んではゐ
 るがこの句ではこの秩父の子に深い愛情の眼を向けてゐる。『どれも腹出し秩父の
 子』の詠嘆は曼珠沙華の季感を滲透して息づいてゐる。都会的な機智の巧さに流
 れぬ人間的地盤の上に立たなくては俳句は生存出来ぬのである」。
 休暇は郷里の土蔵で読書、作句などして過ごす。

 昭和18年 (1943) 24歳
 「寒雷」5月号「寒雷集」巻頭。
 炭焼の貌の冬ざれ岩よりも
 針金もて雪の杉幹幾縛り
 電球に朝陽とどまる雛の部屋

    安東次男征く
 冬日の簷陰ふかき別れかな
  同号に牧ひでを「金子兜太(一)抒情について」を掲載。「寒雷」6月号に随筆
 「おだいさん」を執筆。9月、半年繰上げの卒業。日本銀行に入行、三日で退職し、
 海軍主計短期現役として、品川の海軍経理学校で訓練を受ける。同じ分隊に
 村上一郎がいた。
 大学生の間、新婚の牧ひでを宅に長逗留し、木曾へゆく。父と房総一周。出征にあ
 たり、「寒雷」の仲間、奥秩父・強石の二木屋で壮行会が行われる。「寒雷」10月号
 に「牧ひでを諭」を執筆。12月、「寒雷」18人の合同句集『伐折羅』に参加。

 昭和19年 (1944) 25歳
  2月、主計中尉に任官。3月初め、トラック島夏島(現、デュプロン)第四海軍施
 設部に赴任。直属上官が詩人西村皎三(矢野、主計中佐)。5月31日、嶋田青峰
 死去。7月、サイパン島陥落。矢野中佐戦死。「寒雷l9月号に「生活と古典について
 (一)」執筆。

 昭和20年 (1945) 26歳
  本土との交通ほとんど途絶。米機、連日来襲。食糧事情悪化し、栄養失調続出。
 年初、夏島より秋島(現、フエファン)に約200名とともに移動、食糧自給態勢を図る
 も不如意。主計大尉となる。全島虚無状態のうちに敗戦。

 昭和21年 (1946) 27歳
  米軍捕虜として春島(現、エモン)の米航空基地建設に従事。11月、最後の引揚
 船駆逐艦「桐」で復員。南「字星の会」(散ざん苦労する会)できる。堀徹、余寧金之
 助と奥秩父へゆく。

 昭和22年 (1947) 28歳
  妹・灯、北朝鮮より長男を背負い帰国。2月、日本銀行に復職。4月、塩谷みな
 子(俳号・皆子) と結婚。父方の祖母・しげ死去。
 「寒雷」に復帰。沢木欣一が金沢で創刊した「風」に参加。浦和に住む。

 昭和23年 (1948) 29歳
  俳句同人誌「青銅」を堀徹と創刊するも、2号で終刊。2月、日光山麓に戦友黒
 川憲三を夫婦で訪ねる。東照宮、中禅寺湖、華厳の滝などを見物、初めての新婚旅
 行と思う。6月21日、長男・真土誕生。 同月、堀徹、喉頭結核のため死去。日本
 銀行従業員組合代表委員となる。

 昭和24年 (1949) 30歳
  4月、日本銀行従業組合事務局長(専従初代)となり、組合運動に専念。初夏、
 浦和から竹沢村(現、埼玉県小川町)に転居。

 昭和25年 (1950) 31歳
  1月、田川飛旅子・青池秀二との合同句集『鼎』(七洋社)を出版。「楸邨論断片」
 を「寒雷」4月号に書く。4月、埼玉県志木町(現、志木町)に転居。6月、朝鮮戦争
 勃発。
 レッドパージ広がり、各労組騒然。 12月、日銀従業員組合を退かされ、福島支店に
 転勤。

 昭和26年 (1951) 32歳
  阿武隈河畔渡利の藤村多加夫の持家に住む。「波郷と楸邨」を「俳句研究」5月号
 に執筆。

 昭和27年 (1952) 33歳
  阿武隈河畔より旭町の新行舎に移る。12月、義母・塩谷サワノ死去。

 昭和28年 (1953) 34歳
  只見川電源開発進み、経済調査のため雪深い会津へゆく。九月、神戸支店に転
 勤。神戸市岡本の家族寮に住む。大阪の「天狼」大会に出席、新興俳句の諸先輩
 を知る。

 昭和29年 (1954) 35歳
  「俳句」4月号に「二つの急務」を執筆。金沢の「風」入会で、大野林火・秋元不死
 男・鈴木六林男とともに講演。堀葦男・林田紀音夫を知る。「風」11月に同人24名
 へのアンケート「俳句と社会性」に、「社会性は作者の態度の問題である。創作にお
 いて作者は絶えず自分の生き方に対決しているが、この対決の仕方が作者の態
 度を決定する。社会性があるという場合、自分を社会的関連のなかで考え、解決し
 ようとする『社会的な姿勢』が意識的にとられている態度を指している。(下略)」と
 答え、話題を呼ぶ。
 沢木欣一は同号「後記」で、「いわば風同人の実作意識の底辺を示したわけで、
 この下部構造の上に将来見事な花を咲かせるようお互に努力したいものだ」と
 述べた。

 昭和30年 (1955) 36歳
  「俳句」2月号で大島民郷・伊丹三樹彦・桂信子と座談会「現代俳句の周辺」。「俳
 句研究」2月号、3月号に「俳句における思想性と社会性-三十代として」を執筆。
 「風」金沢大会で、加倉井秋を・鈴木六林男・原子公平と講演。皆子「風」賞を受賞。
 7月、『現代俳句集I』(現代俳句の会・共著)に「福島にて」50句掲載。「俳句」7月
 号に佐藤鬼房句集『夜の崖』書評、同誌9月号に鈴木六林男句集『谷間の旗』書評。
 10月、第一句集 『少年」一(風発行所)刊。

 昭和31年 (1956) 37歳
  1月、関西中堅有志による「新俳句懇話会」結成され参加。「俳句研究」2月号に
 「本格俳句-その序論 山口誓子作品より」を書き、方法論形成を目指す。5月、
 「寒雷」東京大会で講演し、はじめて「造型」の語を使う。6月、『現代俳句集』に(筑
 摩書房)に作品256句掲載。7月、現代俳句協会賞を受賞。「俳句」12月号に
 細見綾子句集『雉子』書評。この頃より俳句専念を期す。

 昭和32年 (1957) 38歳
  「俳句研究」1月号にて「本格俳句-『誓子の革新』の評価をめぐって」を執筆。
 九月、青谷の行合に移る。神戸の有志、橋かん石・永田耕衣・赤尾兜子らによる
 「現代俳句の会」結成に参加。朝日新聞阪神版俳句選を担当。
  「俳句」編集を担当していた西東三鬼に奨められて「俳句の造型について」を書く。
 4月、『現代日本文学全集』第91巻「現代俳句集」(筑摩書房)に作品256句を
 収載。
 神戸での近作(朝はじまる海へ突込む鴎の死)
 (銀行員等麻より螢光す烏賊
(いか)のごとく)
 など収載。「俳句研究」9月号に「鈴木六林男の横顔-友が語る現代俳句協会賞
 受賞考-」を執筆。

 昭和33年 (1958) 39歳
  1月、長崎支店に転勤。隈治人に会う。五島列島・唐津・雲仙・佐世保・門司・野母
 半島にゆく。代表句、(攣曲し火傷し爆心地のマラソン)
 (華麗な墓原女陰あらわに村眠り)

 などを作る。「俳句研究」2月号に高柳重信との往復書簡「俳句の造型について」
 を執筆。同誌9月号に「俳句の『現代』について」。

 昭和34年 (1959) 40歳
 九州現代俳句協会発足に参加。「難解ということ」を「俳句」2月号の特集「難解
 とは何か」に執筆。特集執筆者は他に平地静塔・西東三鬼・飯田龍太ほか26名。
 10月、『現代俳句全集』第8巻 (みすず書房・共著)へ神戸時代の作品100句
 収載。
 (殉教の島薄明に錆びゆく斧)を書く。この年あたりから前衛の語多用され、俳句
 にも及ぶ。

 昭和35年 (1960〕) 41歳
  「俳句研究」1月号に赤尾兜子句集『蛇』書評執筆。5月、東京の日本銀行本
 店に転勤。杉並区沓掛町の行舎に住む。「風」15周年記念大会に「三たび造型
 について」を講演。長崎から東京までの旅に取材した「海程」100句を「俳句」10
 月号に発表。
 (粉屋が間人く山を駈けおりてきた俺に)
 (果樹園がシャツ一枚の俺の孤島)など。
 「Kの答弁ー造型をめぐって」を「寒雷」に書く。

 昭和36年 (1961) 42歳
  「俳句研究」1月号に「詩の時代」(俳句評論大会での講演)掲載。同誌l1月号
 より3月号まで、「俳壇時評」を連載。同誌7月号で沢木欣一・原子公平・高柳重信
 楠本憲吉(司会)と座談会「現代俳句の諸問題を衝く」。
  同11月号で高柳重信と対談「前衛の渦のなか」。「造型俳句六章」を「俳句」1
 月号より6回連載。中村草田男と論争の「現代俳句」「現代俳句の誘い」を朝日新
 聞に書く。座談会「現代俳句とは何か」を、村野四郎・秋元不死男・森澄雄などと
 「俳句」8月号、九月号で行う。12月、現代俳句協会分裂、俳人協会発足。
 7月、第2句集『金子兜太句集』(風発行所、のち邑書林句集文庫に収録)刊。

 昭和37年 (1962) 43歳
  草田男と引き続き論争、「俳句」1月号に「現代俳句の間題」を往復書簡の形で
 執筆。同誌3月号に「現代俳句の問題」を-再び中村草田男氏へー」を書く。4月、
 同人誌「海程」を創刊。「海程」誌上で、原子公平・沢木欣一・赤城さかえ・石原八束
 と四回対談。西束三鬼死去のあとを受け、北海タイムス俳句選担当。
 (無神の旅あかつき岬をマッチで燃し)を書く。「俳句研究」12月の年鑑号に「不毛
 と捻りの一年」執筆。

 昭和39年 (1963) 44歳
  1月、鷲見流一宅で「海程」新春祝賀会。4月、第1回「海程」全国大会会を浅
 草伝法院で開催。盛見、秩父三峰山頂で勉強会。
 ※7月、『短詩型文学論-(紀伊国屋書店・岡井隆と共著)を出版。

 昭和39年 (1964) 45歳
  「俳句」1月号より「評論月評」を6回連載。2月、「海程」関西の会、北摂山荘。
 秩父長瀞に父・伊昔紅の句碑除幕。「俳句研究l4月号で三谷昭・高柳重信と鼎談」
 返り点以後の前衛」。8月、宮柊二と北海タイムス歌俳講演会で北海道へゆく。
 10月、熊谷に土地を買う。上州川原湯で勉強会。伯父・浜出篤雄死去。
 学習研究社「中三コース」、読売新聞地方版俳句選を担当。
 (霧の村石を投うらは父母散らん)を書く。

 昭和40年 (1965) 46歳
  4月、『海程合同句集』(海程発行所) 出版。六月、第1回海程」全国同人会を
 東京で開催。
  九月、「今日の俳句』(光文社カッパブックス)出版。

 昭和41年 (1966) 47歳
  2月、千葉富津勉強会。4月、赤城山勉強会。「俳句」1月号に「『今日の俳句』
 について」(自著自註)、同誌6月号に「有季定型の論じ方を誤るな」を執筆。9月
 「海程」五周年入会を東京で開催。早稲田大学文化祭などで講演。
 八月、海程戦後俳句の会 『金子兜太句集」出版。

 昭和42年 (1967) 48歳
  五月、豊山千蔭の現代俳句協会賞受賞祝いを兼ね青森へゆく。成出千空の
 案内で津軽を歩く。(人体冷えて東北白い花盛り)を作る。
 現代俳句協会などで講演。「俳句研究」5月号の加藤楸邨特集に「楸邨の近作」
 執筆。
 「俳句研究」6月号で.特別企画・現代俳句作家の相貌シリーズ第一回 金子兜
 太篇」。「俳句以前-中学の頃までー」を執筆。出沢珊太郎ら9名が寄稿。7月、
 現住所の熊谷市へ転居。この年、「俳句研究」に赤城さかえ論、佐藤鬼房論など
 執筆。

 昭和43年 (1968) 49歳
  1月、埼玉文芸懇請会発足。4月、秩父谷津川で父母金婚の祝い。8月、水上
 での「寒雷」300号記念大会に参加。「俳句」10月号で「特集・現代の作家-金
 子兜太」。兜太近詠20句、林田紀音夫・加藤楸邨・飯田龍太ら11名らが執筆。
 「俳句研究」に「紀音夫と戦後世代」(6月号、「社会性の行方」(7月号)、「季語
 雑感」(9月号)などを書く。
 ※4月、第3句集『帵帵』 (三青者)刊。

 昭和44年 (1969) 50歳
  6月、「海程」八周年大会を湯河原で開催。2月1日、義父・塩谷覚三郎死去。
 同月、「海程」句集祭を東京・私学会館で開催。「俳句研究」に「老後稚心」(特集
 長谷川かな女)(8月号)、「社会性と存在」(9月号)「こっけい」(第1回俳句研究
 全国俳句大会講演)(12月号) を執筆。この頃より、兜太変節、後がえり(伝統
 回帰)の批判、いわゆる前衛内よりおこり、それに反論。「社会性派」と、「モダニ
 ズム派」との分離明らかとなる。真のリアリズムを目指す。



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