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言葉の輪郭を曖昧にする
谷 佳紀
先日の海程東京句会(2003年9月)に次のような句があった。
右折車ばかりで左の空地ぼんやりす 金子兜太
一読、この作品に魅了されてしまった。今日の句会はこの一句に出会えたことで充分満足、他はいらないと思った。幸いにこの作品は合評の対象になり私も発言の機会を得たのだが、その時点では整理できず言うべきことを充分に言えなかったという思い、見過ごすにはもったいない表現の問題を含んでいる作品という思いがあり、文章できちんとまとめておきたいという気持ちになった。
この作品に対し、「で」はいらないという指摘と、「曖昧だ」という二つの指摘があった。もっともな意見だろう。確かに「で」で表現が流れ韻律にしまりがないように感じられる。その結果曖昧感が残る。
右折車ばかり左の空地ぼんやりす
試みに「で」を抜いて書き直してみると、言葉の一語一語が明確になり、韻律も強まり、右折車の流れと左の空地の対比が明確になり、曖昧さはなくなる。しかしなんとつまらない、事実だけの表現になることか。「右折車ばかりで左の空地ぼんやりす」と書かれていたときの、何とはなしに引きずっている情が全く失われている。
「で」を意識して読みおろしてみればわかるはずだが、「で」で韻律がゆるくなる。一語一語の輪郭が薄れ、なんとは無しにぼやーっとしてくる。しかし面白いことに、「で」で引きずられたかのように「情」がぼんやりと姿をあらわし、この「情」が表現を支配してしまう。実はこのことが大切なのだ。金子には思念している事実がある。その事実を事実のまま表現したのでは事実の報告で終わる。そこで事実の報告でありつつも表現を成立させるために思念を情で覆ったのである。
阿部完市の表現と比較してみるとよくわかる。阿部は言葉に付着しているあらゆる夾雑物を取り除き、阿部が直感する「物」だけを言葉の本体としてとらえ、そのような物と言葉と阿部が韻律として感覚している肉体感、これらを一つにして阿部の表現は成立している。韻律として阿部が感覚している肉体感は時々刻々と変化する。それに従って物の実体も変化し、言葉も変化する。その表現の確かさは、阿部の一瞬の肉体感の結果であり、他者には安部の肉体感を感覚し感受されるものではあるが、思念として具体化されないため掴み所のない曖昧な確かさとして現出する。その結果阿部の表現は、本来否定用語である「曖昧」という評語が肯定用語になるという逆転が生じた。
金子も一語一語を明確にしたのではこの表現は成立しない、韻律が決めてであることを知っていた。ただ金子は阿部とは逆に言葉の夾雑物が現実を背負い、夾雑物まるごとを背負い込むことが金子の現実であり、そこに表現の価値を置いている。したがって夾雑物を排除することなく、しかも言葉の輪郭を薄め、韻律で統一させるという軽業が要請された。「で」はそのような韻律の要であり、「で」は金子の情を露わにし、「で」一文字で微妙な統一が遂げられたのである。
阿部では肯定用語である「曖昧」が金子の場合は否定用語になるという、この馬鹿馬鹿しさが生じた理由は簡単である。阿部の場合、なんとなく感受する得体の知れなさを「曖昧」という語、最近では「ファジー」という語で逃げているだけなのだ。誰もが指摘できる現象は指摘できるが、その本質を語れないがゆえに「曖昧の面白さ」と逃げた。何も語っていないに等しい。金子の場合、日常用語と同じ表情で言葉が現れているが故、韻律に注意を向けないと、思念だけしか見えてこない。しかも意図的に韻律で言葉を流しているため、言葉がぼやーっとしているという現象だけが目立つので、安心して曖昧であると否定できる。
しかしこの作品を曖昧と言っているのは、私たちが普段お喋りしていると同じ日常用語と同じ表情をしていながら、日常用語に書き写し語れないというだけのことだ。だがもともと作品そのものを日常用語で説明するのは困難であって、明確に説明できるものは駄作に決まっている。読者の読書体験が必要なのはそのためである。読者はその作品が持っている質を感受すればよい。その質感さえ感受できれば曖昧と言えない。この作品をこの韻律でゆっくりと読みおろしてみれば、金子が感じている現代という時代が濃厚に感受できる。それで充分であり、それを語る必要があるときは、その質感のみを自信を持って語ればよい。
なお、金子はこの作品について、まだ作者が誰であるか発表されていないときに、「今誰も彼もが右傾化し、左翼陣営がぼんやりしているという時代の批評としても読める」と発言している。私はそのような読みに気づいていなかったが、なるほどと思い、その解釈は成立すると思った。しかしそれは、そのような読み取りも可能であるという、読者に任された読み取りの自由であって、この作品の価値には無関係である。作品を語るに面白いが、そうであろうとなかろうとどちらでもよい。興味がない。今でもそのように思う。
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