金 子 兜 太

                                



 
 句集の森『水の迷宮』田中悦子            TOP    BACK     



   句集「水の迷宮」田中悦子


  (株)文學の森
  定価2800円


  著者略歴

  昭和21年   横浜に生まれる
  昭和44年   「あざみ」入会
  昭和63年   「あざみ」同人
  平成15年   「ぶるうまりん」同人
  著書 合同句集『鰐』第1集~第3集(昭和46年~51年 あざみ社)
  共著 『あざみ新鋭女流十五人集』(昭和56年7月 あざみ社)
  句集 『花の幻想』(平成9年6月 本阿弥書店)








自選十句



冥王星消えセイタカアワダチソウ

冬の川原風景を死者流れ

神在(いま)せり夜の奔流に扉(と)を立てる

体内にくらき部屋あり女正月

枯れ音へ純化している死者の声

さくらさくら生きて死ぬそれだけのこと

純文学とは卯の花腐しかな

聖五月まだ全裸にはなれません

蟻の列海割れる日ほを待ちており

黒揚羽深き傷もて翅たたむ






序 ―田中悦子句集『水の迷宮』に寄せて

 見えない大事なこと


 二〇〇三年(平成十五年)八月二十四日、初めての「ぶるうまりん」句会
が大磯の町立図書館会議室にて行われた。とうに立秋は過ぎたものの、

立っているだけでくらくらするような、ものすごく熱い日だった。大磯駅から海
岸へ下るなだらかな坂の途中のすぐ近くに、その図書館がある。メンバーの

何人かは、定刻前に図書館の自動ドア付近に立って待っていた。遠くに蝉の
鳴き声がし、頬のあたりを微風が掠めた。十数名のメンバーの中に田中悦子

さんが入っていたけれど、彼女とはごく浅い交流しかなく、どんなスタイル
の俳句を創作し、どのような仕事ぶりをするのか、正直いってあまりよく理
解していなかった。

句会報を毎月休みなく発行する一方、二〇〇四年(同十六年)の十二月に
雑誌の創刊号を発行することにな。悦子さんは、会計の仕事と句会報の仕

事を担当しているのにも関わらず、率先して雑誌の編集も手伝ってくれると
いう。基本的に自力で全データをパソコン入力し、それをDTP編集すると

いう方法をとったため、彼女は一挙に多彩な学習をすることになった。多方
面に仕事の範囲が広がる中の編集実務は、彼女にとって大きな負担であっ

たと推察されるのだけれど、イヤな顔一つしないで、全力で仕事をこなしてく
れ、見事に創刊号は完成した。これを契機に、「ぶるうまりん」は順調に号
を重ねる。


  対象と自己の凝視から

相当な量の編集実務等のハード面を、次から次へ難なくや。抜ける悦子さ
んの抜群の要領の良さに比べ、肝心の俳句創作のソフト面には、当初それ

なりの戸惑いがあったようだ。「ぶるうまりん」のマニフェストの三に掲げてい
る「詩的跳躍(ジャンプ)」が、今ひとつ掴みきれず、従来のスタイルからどうし

ても抜け切れずに逸巡する一時期があったのだ。しかしある場面を境に、彼
女は変貌する。自ら作品の表記を「新仮名遣いに改め、彼女独特の柔らかい
感性がさらに鋭く磨かれ、ポエティックに解放されてきたのである。

   暗がりにじゃがいもの芽の増殖中

   自死という選択もあり青樹海

   ずぶ濡れて海へ傾く濃紫陽花

   蟻の列海割れる目を待ちており

   句集『朱田』深入りしては冴え返る

   夢に散る土方歳三涼しき目

   たましいの漂うに似てひまわりは

   香水瓶女体ゆらゆら溶けゆくよ

 第二早「美しき首」と第二章「愚者賢者」に収載されている、これらの句
を仔細によくみていただきたい。「じゃがいも」「青樹海」「濃紫陽花」「蟻の

列」「句集『朱田』」「土方歳三」「ひまわり」「香水瓶」の対象からの「詩的
跳躍(ジヤンプ)」がきちんとなされているのは当然で、しかもそれらの対象

と自分がどうあるべきかが、各作品群の中にしっかり織り込まれている。も
とより、これらの作品における「自己存在の揺らぎ」が、とても貴重であるこ

とはいまでもない。右目の「じゃがいもの芽の増殖中」から、あちこちにはび
こる「生」の負的存在に対する凝視が、じつに悦子さんらしい。二句日の「自

死」が、右目の延長上にあることは自明の理だろう。三句日の「ずぶ濡
れ」の「濃紫陽花」を、人間に重ねてみると、どうなるのだろうか。

四句日の〈蟻の列海割れる日を待ちており〉は、「ぶるうまりん」初期の
全体の傑作として、永く私たちの記憶に留めてよいのではないかと思う。

『旧約聖書』の『出エジプト記』に出てくるモーセは、紀元前十六世紀から
十二世紀頃、「約束の地」カナンを目指して民とともにエジプト脱出を決意

したものの一行は海岸まで追いつめられてしまう。その時、モーセが手を
海に向かって差し伸べた。すると、目の前の海が割れ、海底が道になり一

行はその道を歩いて向こう岸に到着できた。作品中の「蟻の列」のことばが、
千釣の重みをもつ。

五句日の「句集『朱田』」は、飯島晴子の第二句集である。悦子さんは
「ぶるうまりん」第二号に「飯島晴子への一視点-晴子と死」という力作
のエッセイをお寄せいただくほど、飯島晴子への並々ならぬ思い入れがある。

北海道の函館市での作品である、六句目の「土方歳三」の「涼しき目」が良
い。三十五歳の若さで函館に朽ちた「土方歳三」の肖像写真の目は、なるほ

ど涼しげで艶がある。七句日の「ひまわり」の句は、ヴイツトリオ・デ・シ
ーカ監督の同名の物悲しい映画(ソフィア・ローレンほか主演)を彷彿とさ
せよう。八句日の(香水瓶女体ゆらゆら溶けゆくよ)は、神奈川県の箱根町
にある「ラリック美術館」での作品であるが、「写生」の核をしっかりとら
えつつ、それを超克する躍動的な官能性に満ちた傑作であるにちがいない。
 
  「詩的跳躍(ジャンプ)」への道程
「ぶるうまりん」は、本稿を執筆している二〇〇七年(平成十九年)六月中
旬現在、すでに六号を出し、句会報も毎月の定時刊行を続けている。また、

「ぶるうまりん句会」、さらに勉強会と句会を併催する「俳句/W.W.W.」
(通称俳句だぶりゅ」)も毎月行われている。それらの会で私が皆様に

申し上げていることの一つに、先述の「詩的跳躍(ジャンプ)」がある。率直
にいって、俳句におけるそれは、言うは易く、実行するのは難しい。優れた

俳人の誰彼も、日夜ひそかに行っているその奥義とは、いったい何なのだ
ろうか。その答は、日常生活中心主義の散文的(歩行的)行動を根本的に
見直すことだ。解のないようにいえば、日常生活を疎かにしろというのではない

日常生を大事に慈しみつつも、その中枢に「詩」(俳)の精神と活動を据える
ということである。句作を通して、モノを真摯に見詰め、同時にモノの背後にあ
る真髄を考えること―。

  冬の川原風景を死者流れ

  純文学とは卯の花腐しかな

  森深く数多の胎児眠りおる

  冥王星消えセイタカアワダチソウ

  神在(いま)せり夜の奔流に扉(と)を立てる

  陽炎を溺れどの手を掴もうか

   永き日の四肢張って考える犀

   花衣選る非日常の入り口へ

 ここに掲出した作品は、第三章「原風景」、第四章「水の迷宮」からのも
 のである。前二章にも増して、その 「詩的跳躍(ジャンプ)」の角度は
いっそう磨かれ、なお洗練されてきていることに、賢明な読者は気付か

れよう。一句目の(冬の川原風景を死者流れ)の「死者」は、悦子さんに
よれば、泉鏡花の挿絵家として著名な鰭崎英朋の作品から発想のヒント

を得たそうだが、そのようなことを容易に超越して、一句としての鮮烈な
輝きを放っている。二句日の「純文学」と「卯の花腐し」の絶妙な関係性、

三句日の無季作品として「森」の神秘性と地球規模の「命」への優しい視
線などから、彼女の本質的な詩人気質がよく顕現されている。四句日の
「冥王星」に至っては、宇宙地球の未来にまで想像力が届く。

 五句目(神在(いま)せり夜の奔流に扉(と)を立てる)は無季作品だけれ
ど、三句目と同様に、あまりそういう感じがしない。この句の「夜の奔流」に

立つ「扉」は、きわめて象徴的である。日常から非日常への境界に存在す
る「ドア」へのノックは、考えるまでもなく作者の「神」への挨拶であるだろう。

六句の「陽炎」に溺れる風景から、人間存在の宿命的な「不安感」が感受さ
れよう。マルティン・ハイデガーは人間存在を、否応なく世界に投げ込まれて

しまった「被投性」とし、それは「気分」、とりわけ「不安」によって自覚さ
れるという。そして「死」の意識を通して、人間存在の「生」の意味を、根

本から捉えなおそうとする努力を始める。このことをハイデガーは「投企」
(Entwurf)とした。六句日の浮遊する「不安感」は、私にそんなことを想

像させた。七句日の(永き日の四肢張って考える犀)の句も、独創的で面白
い。この句を読んで、不条理演劇の代表者の一人であるウジエーヌ・イヨネ

スコが書いた「犀」の世界を思い浮かべる人もいるだろう。八句日の「非日
常」の世界は、この作品のみならず、句集全体に通奏低音として流れる非常
に重要なモチーフの一つだ。


   ブラックホールへ吸われ行く花見客

   素通しのエレベーター行けり冬銀河

 私たちの「ぶるうまりん」の会で創作されたものとは別の作品群が、第五
章「酔芙蓉」、第六章「夜叉」として収載されている、それらの作品の底に

は「ぶるうまりん」での悦子さんの「脱構築」の確固たる基礎が十分に伏
在する。そういう意味で、この二章の作品群は、決して読み落とされてはな

らない重要なテキストなのではないか。アントワーヌ・ド・サンテグジュペ
リの『星の王子さま』に出てくるとても大切なことばに「アプリボワゼ」

(apprivoiser)がある。ある。これは「飼いならす」「絆をつくる」の意味で、登場
するキッネと王子さまの関係を言い表すもので、その話の中では頻出する。

私流に解釈すれば「大事なことは目に見えない」からこそ、心の中で「大
事なこと」を「アプリボワゼ」しなくてはならない。それは、人間としてき

ちんと「生」の責任をもつことだ。俳句を通して、人間と世界の「大事なこ
と」をしっかり「アプリボワゼ」した本句集『水の迷宮』を、私たちは謙虚
に喜び歓迎しょう。

           二〇〇七年六月吉日 湘南・大磯にて 須藤 徹



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