金子兜太

                                     
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  『ナイトフライヤー』 Night FLyer
 
  高遠朱音

 
  ふらんす堂 2009年3月刊

  定価 2300E





  著者略歴

1985年生まれ
1999年  伊藤園「おーいお茶新俳句大賞」などで入選、受賞。
        高遠朱音として本格的に俳句を始める。
2000年  現代俳句協会会員。自由句会誌「祭演」などに参加。
        合同句集『祭1I』『祭演2』『祭演3』『祭漬4』『祭漬5』に参加。
2006年   現代代俳句協会ジュニア研修部員として活動開始。
        毎年8月に行われる「俳句指導者実作講座」にてジュニア句会の司会を担当。
2007年  大学文学部卒業。
現 在    『蛮』『ロマネコンテ』などに執句。Webデザイナー。





    『ナイトフライヤー』自選10句    高遠朱音

                     夜間飛行下界すべてが水族館

                     鮨詰めのわたしがひとり神無月

      うちのより隣のざくろがおそろしい

      風花や行方不明の顔になる

      夏の昼ラップは太平洋に出る

      魍魎の春眠眺めていたり

      咳が治らぬ青バナナ

      青嵐昼を飼い殺しているだろう

                     日記買う安眠のないコッペリア 

                     真夏のペンだこ夜明けのアトリエ
 


 

    [序文]  俳と詩の交差点             前田 弘


  『ナイトフライヤー』は高遠朱音の初めての句集である。彼女はこの一月二日、
 二十四歳になったばかりだが、この句集には彼女が俳句の世界に迷い込んでから、
 ほぼ十年間の作品が収められている。聞くところによると彼女の俳句のスタートは、
 中学二年生、「小林一茶祭り全国中学生大会」入選にあるという。それ以後の高校、
 大学の学園生活に一年間の社会生活を含む十年間だが、まさに青春真っ盛りの生の
 証しである。言葉よりも音楽、演劇、スポーツなど肉体そのもので自己表現をする
 ことが多い時代、彼女が俳句を選んだのは不思議である。当時、彼女自身「私はは
 っきり言って、俳句なんかよりも絵を描くことの方が好きだ」と、明言していた。

   夜間飛行下界すべてが水族館

   『ナイトフライヤー』冒頭を飾る一句であるがプロローグ」に収められている
  が、初期作品ではなく句集全体を象徴する作品として提示されたのだろう。夜間飛
  行の機窓から下界を見下ろす。そこに見えるものすべてが水族館である。美しくフ
  レッシュなイメージである。

   句集は「プロローグ」(初期作品)、「白昼夢」(2000~2003)、「宵闇」(2000~
  2003)、「暁」(1997~2000)、「夜間飛行」へ(2003~2007)「水平線」(2007
  ~2008)の五章からなるが、作者が句集名に「ナイトフラィヤー」を選んだのは、速度、
  方向を失った浮遊感覚、言い換えると青春の頼りなさを暗示したかったのかも知れな
  い。ぼくには、このナイトフライトが纏っているのは宇宙の間ではなく、液晶画面の間に
  思えてならない。

   ワープロに漂うばかり春の夜

   体温計持つと出て行く春の猫

   うちのより隣のざくろがおそろしい

   「プロローグ」に収められている三句。自分の姿や位置の客観視、猫の行動の意
  外性(気づき)、対象から受け取る実感の言い止めなど、とても中学生の書いた作
  品とは思えない。

   温もりを作り出したい雪兎

   青葡萄えんぴつの休暇を失くす

   句集の中頃「暁」所収の作品である。制作年度から言えば、「白昼夢」「宵闇」に
  先立つ作者十二~十五歳、中学時代の作品である。句集の途中で乱気流を起こすよ
  うな編集をなぜしたのか、その意図がぼくには理解できない。

   この頃、彼女は「言葉を十七昔のリズムに託してモノを言うのは確かにおもしろ
  い。言葉がパズルのようにぴったりと当てはまったときの爽快感は何とも言い難い。
  気がつけばやっぱり俳句にハマッていたのだが・・・・・」と、何かに書いていた。言い
  換えると、自分のなかからひとりで出てこようとするものに形を与える試み、それ
  が彼女にとっての俳句であったのだ。

   「俳句とは季題そのものを詠う詩、季題を中心とする詩である」とか「表記は文
  語・旧かな遣いとする」などという俗説からは自由なスタートであった。表現への
  意志より、一瞬のひらめきや気づきを言い止める。それが彼女にとっての俳句であ
  った。

    真冬日や電子レンジの東京都

    電子メールに枝だれ梅を詰め込む

   前句「白昼夢」、後句「宵闇」所収、朱音高校時代の作品である。
  朝、八時過に一斉にオフィスに吸い込まれ、五時になるとそこから吐き出される
  サラリーマン。真冬日の東京都に巨大な電子レンジを連想する。高校生らしい批判
  精神である。

   この句集からは、電子レンジだけでなく、さまざまな電子音が聞こえてくる。新
  しい俳句の風景である。しかし、その電子音は耳障りな雑音ではなく、どこか心地
  よいホワイトノイズである。

   そういえば、『ナイトフライヤー』 の作品群は、農耕社会の太陰暦の影響をきれ
  いに払拭、都市化・情報化時代に生きる人間の言葉たちが選び取られ、いきいきと
  した表情をみせている。俳句でありながら、歳時記の匂いがしない。平安時代に瞬
  間冷凍された文語・旧仮名ではなく、現代に生きている言葉たちが句の状態で使い
  こなされている。

    音域のところどころに白木蓮         「白昼夢」

    桜草テレビの前で三回おじぎ

    熱帯夜自販機が背伸びをする

    孵卵機や木枯しだけを耳にして

    木苺の種の分だけ迷うかな          「宵闇」

    ばっさりと髪も切ります螢の夜

    青蜜柑まっさらな空に落ちてゆく

    底のない卵の中の星祭り

    空蝉に昼の海が残っていたり

   「夜間飛行」所収、大学時代の作品となる。眼前の空蝉から昼の海の残像を感覚
  する。何げない暮らしの中で、一瞬、光のようによぎる生命や宇宙の質感をいい止
  める。まさに俳句の醍醐味である。同じ対象を目の前にしても、そこから受け取る
  思いは人により全部違っている。そのかすかな違いを発見して驚く。その発見が消
  えてしまわないうちに言い止める。そこには言葉よりも大きな世界が息づいている。

    熱帯夜を泳ぐアスファルトを泳ぐ

    雪虫の足音耳の中の深夜

    水面下の春一番に手を伸ばす

    丸い空なら忘れてもいい 半夏生

    水のない水槽が好き ある日

    トマトあり謝り方は知っていた

    寄り添っている笑いそうな朝顔

    車椅子押すと蜜柑の香り


    プルタブを押し上げ春の澄み出す

    「水平線」所収。長い学生生活に別れを告げ、実社会に飛び込んだ時期である。
   パソコン関係のオフィスは、学生時代の延長線上にあるとは言え、彼女を取り巻く
   社会の空気は一変する。季節の情感に生きる重さがかすかに揺蕩う。

    足音に足音の影や晩夏

    菜の花畑どこまでも飛べる

    シャーペンノックひらりとつばくらめ

    猫の尾の長さ裏道の春

    二十三二歳 蝉なら枯野の蝉

    手のひらを枯野が横切ってゆく

   朱音には俳句よりも、五・七・五・十七音の一行詩を書くという思いが強かった
  のだ。言い換えると、彼女が書く一行詩が世間でいうところの「俳句」であったの
  だ。彼女の俳句は「五・七・五・十七音の定型詩」以外の制約からは全く自由。
  『ナイトフライヤー』は詩と俳との交差点に置かれた希有の句集である。キラリと
  輝きながらどこかおっとりとしている。しかし、そこには既存の俳壇にスポイルさ
  れない芯が一本通っている。

   『ナイトフライヤー』を通じて、新しい俳人の誕生に立ち会ったような気がする。
  新鮮な感動であった。正真正銘の新しい俳人の誕生を読者と共に歓びたい。

     初夏や水平線のピアニスト


            平成二十年十二月三十日
      




 

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