金 子 兜 太

                                
メニュー情報





 21年10月10日刊
 邑書林
 定価 2600円
 
 句集の森                   TOP    BACK         
 


 句集『風の円柱』ENTASIS of  WIND
   下山田禮子
 


 著者略歴

 下山田禮子(しもやまだ れいこ)


 1947年  新潟県生まれ、群馬県育ち高崎市立高崎経済大学卒業
 1991年  「海程」入会、金子兜太に師事し作句を始める
 1993年  「海程」同人、現代俳句協会会員に推挙
 1995年  第一句集『鬼やんま』 (現代俳句協会青年部)
 1999年  「遊牧」(代表・塩野谷仁) に創刊同人として参加
 2004年  第二句集『恋の忌』 (文学の森)
         第一回「文筆の森」俳句大賞にて『恋の忌』優良賞受賞
 2005年  「海程」第6回海程会賞受賞

 現在     「海程」「遊牧」同人
         現代俳句協会会員 研修委部員
         埼玉県現代俳句協会理事
         「高崎兜太句会」代表兼連絡係




  

   きさらぎや浄土に風の円柱 (エンタシス)     禮子


   大型犬の愛友四頭ほ次々に浄土に送った。

  きさらぎの風のなか、その空に高々と円柱
(エンタシス)を組む。
     
          今夫君と二人

    成熟した意志、祈りを含む白の感性


            金子兜太





   集中十句 (島田牙城選)

 
   花の夜やまだ川岸の父の魂

   月光の遠浅に佇つ父であり

   冬の烏葛布のような母でした

   父母は透けゆくばかり田螺鳴く

   箱庭の一本として生死かな

   あかあかとみんな死ぬのね草の花

   絶島のような男来かりんの実

   軸足を少しずらして青野かな

   浅春の水の匂いにつきあいぬ

   きさらぎが耳の辺りを急ぐなり




   栞より (塩野谷仁選)

     
   鳥雲になんと素直な亡父の耳  

   (最初の章は、はらからを詠んでいます・endo)


   耳朶ふかく百鬼夜行の父が住み

   迷宮の父の書庫より蚯蚓引く

   乗り越して父の宙(そら)なり枯葎

   水籠る父の声なり花の闇

   蛇は樹にひとりぼっちで沖の父

   月光の遠浅に佇つ父であり

   とうめいな自転車の父冬北斗

   冬の鳥葛布のような母でした

   母さんの眉うすすぎる蛍の火

   秋の蛇すこし吃音兄の隠世(かくりよ)
  
   →の世の人とならびて草いきれ

   あかあかとみんな死ぬのね草の花
    
  

   走り梅雨日常というわががれ場

   木菟やさびしい人は一歩前

   春の蚊よ遠くから呼ばれたような

   きさらぎの魚のようにすれちがう

   臘月のししむら深く真昼かな

   よく眠る金魚も居たる真昼かな

   狐火の消えるあたりが本家なり

   軸足をすこしずらして青野かな 





 
    風を詠むひと                 櫂 未知子


  ハスキーかつたっぷりとした声を持ち、笑う時にはまことに豪快な下山田禮子さんが、 第三句集『風の円柱』(エンタシス)を出版されるという。禮子さんと同じく声の低い私と しては、姉の出版をどきどきしながら見守っている気分になる。彼女は人目を惹く背筋 の張りと背丈と容姿の華やかさとで、他を圧倒している。謙虚な人柄とその存在感の大 きさとのギャップが、下山田禮子という俳人を際立たせているのは間違いないだろう。

    字足らずのように父来て雁来紅

    月光の遠浅に佇つ父であり

    空の色曳くて父来る小春かな

  一句目、未完成なる一句のような父。二句日の、美しく遠き父。三句日の、幸福そう な雰囲気を持ちつつも、おそらく現実のものではないであろう父。禮子さんも私も、こ の世ではもう会うことのない父を、十七音という寡黙な詩型で表現しようともがいてい る点において、実によく似ている。生前に注いで貰った愛情や葛藤を超え、生身の父親を凌駕する全く新しい父を創造できないかという、創作者ならではの苦しみの中でわれわれは生きている。その苦闘の結果、『風の円柱』(エンタシス)における父は純度を高め、作者一人の父という立場を超えた、読者を静かに惹き付ける普遍的な存在として登場することとなった。それは、第一句集『鬼やんま』(1995年刊)に登場する父の姿とは明らか
 に違っている。

   車椅子の父を慰撫せよ鬼やんま        『鬼やんま』

  書名ともなったこの句の中で、父は(慰撫)という切ない、そして硬い言葉を伴っていた。手助けの必要な、おそらくは健康だった頃の面影のあまり残っていない父に対し、娘はうまく言葉を費やせない。だからこそ、どこからか飛んできた鬼やんまに思いを託す方が、この父と娘の関係にふさわしいと作者は考えたのだろう。

 対して、前掲の三句の父はもっと能動的である。娘の心情が主になるのではなく、父は娘のもとにやって来るのであるーたとえば(字足らずの)の句では雁来紅の鮮やかさを伴って。この句には「来る」の「来」、「雁来紅」の「来」というように、父の意志が感じられる字がある。(月光の)の句は、月光にくるぶしあたりまでを浸しながら佇む父の姿を描いている。その遠い姿をまぶしく見つめながら、作者は沈黙を父と共有しているのである。(空の色)の句では、初冬には珍しく暖かな日、青空の青をしたがえて、父がふわりと降りて来る。語ることなく、何かを伝えんとして焦ることもなく……。

 父は肉体という器を失ったが、それゆえに自由になったのだ。あらゆる空間に存在している父を作者が体感することによって、この父と娘は、作品の中で完全に新しい関係を築き得たのだと見ることが可能だろう。
  さて、この句集のもう一つの特徴として、「直喩の巧みさ」と多さを挙げることができる。

   卯の花腐し書棚見られているような

   絶島のような男来かりんの実

   立葵奇襲のような美童かな

  一句目の、誰もが経験する居心地の悪さをふっと差し出した手腕。そして、二句日の頼るもののいない孤独を湛え、しかし、それゆえの強さをにじませている男。三句日の、心の準備ができていないのにいきなり飛び込んできた美しい子供。どの直喩も、作者が心を奪われた対象を見事に描ききっているではないか。


    寒満月まんだらのごと夫と寝る

    辺境の晩夏のごとし高階は

    俳優のごとき一樹へ雪婆


  これらもまた、それぞれユニーク。一句目、たくさんの仏や神々を網羅したあの図のごとく、夫婦が寝ているというのである。二人しかいないが、われわれは曼荼羅のごとくに寝ているのだという断定による衝撃。ゴージャスである。二旬日、こちらは少し込み入っていて、少しさびしい。三句日の(俳優)とは、主役を張っていた俳優か、それとも渋い脇役を長くつとめた人か。それとも、(雪婆)が集まるぐらいだから、年を取って枯れた俳優だろうか……と、読者の想像の翼はふくらむ。わが持論の一つに、「直喩のすぐれている俳人は信用できる」というものがあり、禮子さんはその数少ない一人である。何かを何かにたとえて、ある像を結ばせようとする時、陳腐な喩えでは詩の領域に達することができず、かといってあまりにも突飛な喩えでは独りよがりに終わってしまう。思いもかけぬ直喩であるのに読者の共感を呼ぶ作品、そういう作品に出会うには、すぐれた表現者の登場を待つしかない。


    箱庭の一木として生死かな

    たいせつな枯野を遠く遠くせり

    浅春の水の匂いにつきあいぬ

    涅槃西風明るい水と暗い水

    風に瀬も淵もありけり鳥帰る

    きさらぎが耳の辺りを急ぐなり

    裏口のいつもぼんやり根深汁

    いくたびも綺麗なお辞儀茅花流し


  佳句のたくさんある本書から、そのごく一部を引いた。選んだ言葉のそれぞれの力強さ、それでいて透明感のある世界が、このわずかな数の句からもじゅうぶん感じ取れると思う。
                      
    きさらぎや浄土に風の円柱(エンタシス)

  書名になった一句である。早春の風に二塀身を縮めながら、作者は〈浄土〉に思いを馳せる。(浄土)の東洋的な響きと〈円柱〉のギリシャ風の響きとが一句の中に共存しているこの珍しい句は、見えぬものを見、あるいは目の前にあるものを純化してゆく作者の魂の宿っている句だといえないだろうか。
  風に振り向く。光を仰ぐ。水にそっと指を浸す。そして、人を愛する。-そんな禮子さんの繊細さに触れるたび、句を詠む、あるいは読むよろこび真にできることの幸いを思う。この世にはいろいろな出会いがある。そして別れがある。人は皆、失いながら生きている。その世にあって、裡子さんと出会えたことは、わが俳句人生において大きな事件であった。『風の円柱』(エンタシス)ご上梓を心から祝いたい。

    梅雨とは思えぬほどにみごとな晴の日に





       copyright © kaneko tohta All rights reserved.