・:句集の森
『指銃』

定価
2,800+税
発行者
本阿弥書店
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・著者略歴
昭和23年岡山県生まれ。『朝』同人を経て『海程』『遊牧』同人。
現代俳句協会会員・千葉県現代俳句協会幹事。
                           
帯より
八重桜指銃いつも幽くある 伶
(やえざくら ゆびづついつも くらくある)
「八重桜」の中には「指銃」があるという想像力。
作者の内面の出来事であり、
その映像性はかぎりなく鮮明である。
帯より
花は葉にわれら腕(かいな)で身を幽(かく)す
蝶の昼絶対音感からくもる
パセリ噛む夕ぐれは鳥の感情
すずかけの花水性の鳥歩む
基督の眼をしていたりルリタテハ
渓もみじオペラ座の傾きであり
白菜に思想のごとき刃を入れる
鳶鳴いて耳の奥まで冬の凪
白線を引き梟になっている
やぶ椿やぶ椿あざやかな科(とが)
                          
序に代えて 金子兜太
夏あかつき一湾は私書箱のよう
夏の夜明けの一つの湾ということをはっきり前提としておかない
と、「私書箱のよう」という譬えが生きてこない。作者は、私の手
紙を受ける箱一つという感じ、私書箱の四角い箱の感じを出した
かったのではないのだろうか。また不思議に、「一湾」というとや
や遠景の感じも出てくる。
この句も作者の手先の感覚でなくて、体で受け正めた感覚。そ
の辺に親しみが感じられるのだろう。独特な感覚だ。この作者は体
から出る感性がうまく働いたときはいい句ができる。
湾の句といえば、佐藤鬼房の〈彼のボスか花火さかんに湾焦す)と
いう句を思い出す。あの時期は、とくに佐藤の場合、はっきりと句
のなかに社会批評をこめて書いていた時期だった。湾に対して同じ
ように肉体的な接近をしなから、鬼房は社会批評を込め、この作者
は自分の心情に抱き込んで書いている。
深爪のように鹿くる麦の秋
鹿の来る状態を「深爪のように」と譬えているのだが、この譬え
がどれだけ一般に説得力があるかということになると、難しい。こ
の思い入れを人にわからせるために「麦の秋」の季題を設定してい
る。麦秋の季節の中に鹿がのこのこやってくる。それが深爪のよう
な印象だということで、麦秋の焦げたような広がりの中に鹿がぽこ
んといる状態が見えてきて、深爪のようなという誓えがわからない
でもない。
この感覚が面白いのでいただいたが、それ以上の意味はない。この
感覚を味わう句で、いろいろ詮索するとつまらなくなる。
私には油絵のような印象で、油絵で書けばこのようになるかなと思う。
具象画の風景だからその中に心象風景として何かの意味を感じている
のかもしれない。風景を少し心の中に取り込んでいる状態だ。が、そ
れが格段の意味をもっているわけではない。
このような句は客観写生の伝承派には避難される。勝手な句だとい
うことだ。風景を主観でとらえているから。短詩型の世界では読み手
が大事である。だからわれわれはわれわれの仲間の作ったこの句が読
めるということが大事だ。
「海程」所収「秀作鑑賞」より
                           
やわらかき叙情 塩野谷 仁
『指銃』は著者・清水伶氏の第一句集である。が、只の新人ではない。
仄聞によれば、著者は母親の影響からか、若くして俳句に親しみを感じて
いて、そのため、本格的に俳句を始めたのは平成二年頃からだという。そ
の母親もいまだ健在で、高齢のいまも作句に励んでいるという。だから、著
者が俳句にのめり込んだのも、あるいは血のなせる業なのかも知れない。
その習作時代の作品が手元にあるCU少しく列挙してみたい。
いずれも「朝」誌 (岡本鉾主宰)からの抜粋である
冬来ると影なき星を侍みとす 平成四年
泣きし子の眦紅きつばくらめ 五年
初夢に薔薇散らかしてちらかして 六年
鶏頭の貌のごときが雨弾く 七年
くれなゐは地に還るいろ落椿 七年
マロニエの花学生は日の匂ひ 八年
空港に日のゆきわたりクリスマス 八年
秋天や野に漂着の旅鞄 八年
大輪の菊類想を恐れけり 九年
完璧に咲かせし薔薇のつまらなし 九年
残念ながらこれらの句群は今次の句集には収録されていないが、俳句の
骨法を踏まえ、それぞれがすくっと立っている。いわば、韻文精神が確立さ
れているわけで、氏の作品を読み解くうえで見過ごせない長所であり、只の
新人ではないといった謂いでもあった。
ところで、この句集の特徴を一言でいうのは至難の業なのだが、敢えていえ
ば「硬質の感性」とでも言えるかもしれない。それは、前記の「韻文精神」に
立ってのものだったのだが、その展開の鉾先は時とともに大いに拡がってきた
ことが見てとれる。身辺雑記的な世界から心象の世界へ、言ってみれば「外な
る世界」から「内なる風景」へ、その作品傾向は次第に深化しているわけだが、
このこと、「感性の解放」は現代に生きるわれわれにとっては避けられない課
題であり、作者にとっても必然の道筋であった。
夕顔や予感はいつも白い象(かたち)
六月や覗きてしろきかくれんば
夏あかつき一湾は私書箱のよう
ゆきずりの感情線です秋の蛇
深爪のように鹿くる麦の秋
瞳(め)の中に冬の鴎を突き落とす
月明やわれらに地球という水底
八重桜指銃(ゆびづつ)いつも幽(くら)くある
一句目の「予感はいつも白い象」は、現代人の持つそこはかとない不安感の
ようでもあり、それに、夕闇の底いちめんに白い花を咲かせる「夕顔」が配さ
れることによって、一層その世界が出現してくる。「六月」の「かくれんば
は、覗けば白いと見るのは作者の独特の感覚。「一湾」が「私書箱」 のようだ
という喩は、作者の持つ本来の感覚の鋭さのたまもの。四句目の、穴惑いして
いる「秋の蛇」に「わたしの感情線」を見出すのも、いまを生きる作者の感情
の吐露以外のなにものでもない。
五句目の「深爪のように鹿くる」の作は、「麦の秋」の季語一発。この赤茶
けた世界を捉えられるのも才覚というもの。「瞳の中」に落とすのは「冬の鴎」
だという意外性。月明の下では「地球」は「水底」だという把握。そして、
「八重桜」の中には「指銃」があるという想像力。いずれも作者の内面の世界
の山来事であり、その映像性はかぎりなく鮮明である。
その一方、この句集には肉親を題材にした句が多く見られるのも特徴の一つ
だろう。言わずもがなのことだが、それは、作者がクリスチャンであることに
起因しているのかもしれない。ここでは「父逝く」と題した平成「二年の作よ
り、次の三を挙げておきたい。
白ききょう葬りにあざやかな吃音
麦秋の夜の海に父傾ける
喪ごころの細身に巻ける燕子花
いずれも絶唱なのだが、三句目は、平成「年作の、
燕子花母にましろき睡り来て
と対応していて、なんとも美しい。心情の繊細さが窺える。これらの作品に
かぎらず、ほかの、同質の作についてもいえることだが、肉親への温かな眼差
しは、ほかならぬ「詩」への信頼でもあった。
青鬼灯くびのあたりの空気かな
撃つ真似も撃たれる真似も人枯野
花アカシアこわされた孔雀でありし
葦枯れてひかりの父をひとり占め
烏渡る繃帯白きまま解かれ
渓もみじオペラ座の傾きであり
ルリタテハ直感ふいに右折する
白菜に思想のごとき刃を入れる
鳶鳴いて耳の奥まで冬の凪
やぶ椿やぶ椿あざやかな科
句集のやや後半部より抽出した。前半部分の作品がどちらかと言うと「感覚
優先であるのに対し、ここにきて、その持徴である感覚が、俳句持有の韻律
に溶けこんできて、作品が安定してきたのが見てとれよう。いわゆる、感性の
本格化がなされてきたわけで、言葉を変えれば、「硬質の叙情」に「やわらか
さ」が備わってきたと言えなくもない。
一句目の、「青鬼灯」がようやく色づきはじめるころ、「くびのあたり」に
「空気」を感じるのは、作者の繊細な感覚の現れ。「烏渡る」ころには「繃帯」
は白いままで解かれるとするのは、作者の美意識。「白菜」に「思想のごとき
刃」を刺すのは、現代に生きる作者の意志以外のなにものでもない。これらの
思いがすべて、俳句出有の定型で書かれているのが、いい。韻律に溶け込んだ
とき、その思いが生きる。俳句という詩形はそういうものなのかもしれない。
オルガンの裏側にある銀河かな
春陰や鶏のうしろに鶏の居て
最新作から抽いた。「韻律」と「思い」の融合。やはり、清水氏は只の新人
ではない。
平成21年4月 八重桜満ちる日に
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