角川書店
定価・本体2800円
(税別)


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上林裕句集 『かまきり誕生』
著者略歴 上林 裕 (かんばやし ゆたか)
大正十二年十一月 東京に生まれる 昭和十五年四月 旧制水戸高等学校入学と同時に、同校俳句会に参加。 同会先輩金子兜太氏の印象鮮明 昭和十八年十二月 学徒出陣で陸軍入隊。句作は途絶。身は敗戦とともに 無事帰還 昭和二十二年十月 日本銀行入行。ここで南方戦線帰りの金子氏と再会 平成元年十一月 金子師配下「海程」一行のアフリカ・スペイン句行に 参加。帰国後「海程」に入会 平成五年三月 現代俳句協会入会 平成十一年四月 「遊牧」創設時に入会、同人
自選十句
白木蓮社員らは人梯子をつくり
セイタカアワダチ団地は白い海峡だ
薬のように片寄せるなり灰の母
朝の耕し南へ下がる方十間
祖父の忌の確かな軌跡銀やんま
かまきり誕生天才なれば透明に
肋間に紅梅点すを老いという
コスモス街道君たち朝の三角波
捩花や背中が痒い俺お前
物零しては笑ます妻あれ亥の年も
上林裕の俳句
―序に代えて 金子兜太
上林裕は旧制水戸高校の後輩で、勤め先の日本銀行も一緒だった。
そしていま、俳句を一緒につくっている。長い付合いなのだが、その縁(えにし)の糸は
俳句で、いまでも、水高俳句会の席上、初見の挨拶を交わしたときのこの人の笑顔を
思い出す。
この水高俳句会なるものを始めたのは、私に俳句の魅力を教えてくれた、これは二
年先輩の出澤三太(俳号珊太郎)だったが、彼は長谷川朝暮、吉田両耳(お二人とも
俳号)両先生を説得して会をまとめ上げ、その最初の集まりに私を引っぱり出したので
ある。それ以来常連になってしまったわけだが、卒業して東京に移ったあともときどき
顔を出していた。そこで上林裕に出会ったのである。
残念ながらそのときの上林の句を、本人も私も覚えていない。この句集は第一句集だ
から是非その頃のものも収載したほうがよい、と勧めたのだが、見当らなかったようだ。
それでも「旧作十一句」を探し出している。冒頭の、
春陰の瞼細めて小辞典
あたりには、学生時代の上林の面影なしとしない。いや、それに違いないと私は勝手に
決めてしまっているのである。
とにかく上林との縁はこの時期にはじまる。このとき彼は剣道部に属していたのだが、
俳句を好み自分でもつくっていた父から、剣道とともに俳句もどうか、と奨められて、俳句
会に顔を出すようになった由である。父は文武両道を弁(わきの)えた息子を望んでいた
のだろうが、同時に祖父の暗黙の影響もあったと私は見ている。この句集には祖父へ
の思いを託した作品があって、敬愛の念が渉む。そのうち四句を。
巨きなる煮凝りのごと祖父ありき
富士冠雪衣紋崩れしことなき祖父
祖父の忌の確かな軌跡銀やんま
山茱萸の終りや清(せい)と夢に祖父
そう言えば、上林裕の風貌気質には質実できりりとしたところがあり、体も痩身で無駄が
ない。背筋もしっかり立っている。これは剣道部で鍛え上げられただけではあるまい。父
子三代の大地に根をもった遺伝子が基本にあってのことに違いない。
上林裕とのその次の出会いは、戦後の日本銀行だった。私は「私の履歴書」(平成八
年「日本経済新聞」に連載)に次のように書いている。
「四年後輩にあたる、石渡誠三、上林裕、三重野康といった顔ぶれが入行してきたこと。
行内食堂で昼食をとりながら、よく論じよく喋った。
揚句、局の人たちの前で三人が研究発表をするということになった。云云」。上林はこの
頃のことをあまりはっきり覚えていないようだが、彼が同じ職場の喜美枝夫人と結婚したの
がこの頃だったと私は確と記憶している。 その頃以後が朧ろなのだが、「旧作十一句」の終りの句、
黎明近しこの年の鰤躍る
について次のようなエピソードが分って、懐しかった。
上林裕が日銀北九州支店長のときの句とのこと。ロータリー新年会の席上、会席者一同が
即興で俳句をつくったなかから、横山白虹の選に入り、白虹氏から色紙を貰ったとのことだ
った。白虹氏は小倉の医家で、戦前の新興俳句運動を代表する俳人であり、このときは現
代俳句協会の会長だったはずだが、ロータリーの会員でもあったのだ。親分肌の気さくな
人だから、どうですか新年の句を、と気軽に言い出していたのだろう。
言うまでもなく「鰤」は成長につれて呼名が四段階に変る出世魚で目出たい。この魚を持ち
出しておいて、「黎明近し」などと荘重な語感で景気付けするあたり、上林に潜む茶目気まで
感じられて、とても好句などと言える作ではないが、私には愉快なのだ。当意即妙の諧謔。
だから、いわゆる正月らしいお俳句といった構えがない。白虹氏が、いただきましょう、とにこ
やかにこの句を選んだ理由もよく分るというもの。
この座興の句からも分るように、上林俳句の特徴は、現在唯今を諧謔含みの発想と喩(ゆ)
でとらえて、最短定型のリズムに載せてゆくところにある。質実できりりとした人物からは、
なかなか予想できないような諧謔がこの人には蓄えられている。それを酵母として、実業の
なかで鍛えられてきた理論派の資質が、独自な発想とともに、巧みな喩を創出する。
こうした上林俳句を「理論派の諧謔」などと私は言い、その新鮮さに驚くことが多いのだ。
たとえば、次のような句。
徳富蘆花旧居 美的百姓に団栗降るや青きもあり
白梅咲いた銃眼から見るようだ
かまきり誕生天才なれば透明に
墨を継ぐ流水に烏置くごとく
椿落ちつぐ皓歯というは零すもの
豊葦原に飢えて柿喰う熊だ撃つな
赤児にしゃっくり移して飛べり法師蝉
月冴ゆといま恐竜を刺して来た
挙げ出せば際(きり)がないので止めるが、題材の選択にも個性があって、これも独自の
発想のなかに含めたい。こうした作品を読んで、乾きすぎる、いや渇きすぎる、潤いが欲し
い、情感が、と言う人もいることだろう。
次のような心情を湛えた作品があり、後半、年齢を加えるなかでこうした傾向が目立って
いることが、それへの答えになっているはずだ。
不帰の母 薬のように片寄せるなり灰の母
朝の耕し南へ下がる方十間
寝ころべば胸の干潟に冬の虫
数学教師の完璧な円島は夏
肋間に紅梅点すを老いという
初蝶湿る早や芸文の花に触れ
紅葉かつ散る本気で散ると怖くなる
捩花や背中が痺い俺お前
平易な文を安易に読むなあめんぼう
子規庵にて 子規喘ぎしか汗の立て膝机を割り
物零しては笑ます妻あれ亥の年も
上林俳句の独自性、その美をくどくどと書きたてる必要はあるまい。
この一冊を読めと言いたい。実業を退いたあと打込んでいる上林裕の俳句は、趣味な
のか、専門家のものなのか、と尋ねることなど野暮の骨頂。
平成二十(二〇〇八)年正月、熊猫荘にて
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